木下杢太郎について(1) おいたち

更新日:2019年07月02日

おいたち

家族写真:右から杢太郎、次姉・きん、長兄・賢治郎、甥・直一、義兄・齋藤十一郎、姪・はま、三姉・たけ、次兄・圓三

 木下杢太郎は、本名を太田正雄といいます。明治18(1885)年に、現在の伊東市湯川で七人兄弟の末子として生れました。実家は「米惣」という商家で、近隣でも有数の資産家でもありました。
 杢太郎は地元の小学校を卒業後、家族の強い勧めにより医者を目指すために上京し、中学からドイツ語を教えていた独逸学協会学校へと進学しました。その後、第一高等学校、東京帝国大学医科大学という当時のエリートコースを進み、皮膚科の医学者としてその名を残しました。
 しかし、家族の勧めによって医学の道に進んだ杢太郎は、当初、画家や文学者となることを望み、家族とはたびたび衝突したといわれています。大学在学中には与謝野寛・晶子が主宰していた新詩社に参加し、耽美派の詩人として北原白秋と並び称されるようになりました。その他、戯曲・小説・随筆・評論・翻訳など、文学者としても幅広く活躍しています。
 また、絵画は生涯に渡って最も好み、その晩年には百花譜とよばれる872枚にもおよぶ膨大な植物写生画を遺しました。

与謝野晶子の杢太郎評

与謝野晶子『心の遠景』:装釘は杢太郎
「明星」8-4(1926年6月)

 数学的、理学的、化学的、哲学的、芸術的、社会的、教育的、道徳的の何れにも人並以上の才能と興味とを遍ねく持つて居て、特に其中の幾つかが専門的に優れてゐる所の、謂ゆる万能の天分を兼備した事が男子の中に折折ある。私の親しくしてゐる人達の中でも、木下杢太郎さんの如きが其稀有な人の好い例である。木下さんは一方に科学者である、医学博士である、大学教授である。病院では皮膚科の専門医である、一方に画家である、戯曲家、詩人、小説家である。また一方で考証家、批評家、支那学者である。また一方に独、英、支那の各国語に通じてゐる人である。 木下さんのやうな、大きな、さうして精緻に充実した規模の人は其中の一能だけを以ても優に一家を成すことが出来る。該博な人には浅薄の非難の伴ふものであるけれども、木下さんには其れが無い。何事にも真面目であり、入念であり、研究心が深く、情熱が行き亘るのである。氏の知識も趣味も殆ど際涯がない程に広い。

木下杢太郎について

木下杢太郎記念館

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