木下杢太郎について(2) 文人・木下杢太郎

更新日:2019年07月02日

文学者・木下杢太郎

五足の靴:矢印が杢太郎、左に吉井勇、平野万里、与謝野寛、杢太郎後ろの学生服姿が北原白秋

 木下杢太郎は、東京帝国大学在学中に与謝野寛・晶子が主宰する新詩社に参加し、本格的に文学活動を行うようになりました。戯曲・小説・随筆・評論など、様々な作品を発表していますが、耽美派の詩人として最もよく知られ、異国情調と江戸趣味を融合した詩風で、北原白秋と並び称される存在です。
 新詩社では白秋や吉井勇らと特に交友が深く、1908年には共に新詩社を脱退し、パンの会を起しました。このパンの会には、後に高村光太郎や谷崎潤一郎、小山内薫など様々な分野の芸術家が参加しています。
 またこの頃、森鴎外の自宅で開催されていた観潮楼歌会にもたびたび出席し、鴎外に傾倒してゆきました。杢太郎は鴎外を生涯に渡って「先生」と呼んで慕い、その死後には鴎外全集の編集も行なっています。
 さらに、石川啄木らと共にスバルの発行に携わるなど、当時の文壇の中心で活躍しました。

百花譜

百花譜:左)あまづる、右)ゆきのした

 杢太郎は中学の頃から画家になることを望み、高校時代には水彩画家の三宅克己に師事していました。医学の道に進んだ後も絵は常に描き続け、スケッチや色紙などが大量に残されています。
 中でも、百花譜と呼ばれる植物画は、1943年~1945年までの2年4ヶ月ほどの間に872枚という膨大な絵を描きました。その多くは身近にある草花ですが、精密を極めたその絵は見るものを惹きつけてやみません。

木下杢太郎について

伊東市立木下杢太郎記念館

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