木下杢太郎の兄・太田圓三

更新日:2019年07月02日

鉄道始まって以来の天才技術者

学生時代の杢太郎氏と圓三氏ほか3人が写った白黒写真

学生時代の杢太郎と圓三:中央が圓三、左後ろが杢太郎

 太田圓三は木下杢太郎(本名・太田正雄)の実兄です。杢太郎より四歳年上で、明治14(1881)年に現在の伊東市湯川で生れました。
 圓三は、東京帝国大学工科大学土木工学科を卒業後、逓信省鉄道作業局(後の鉄道省)に入局し、長く鉄道技術者として活躍していました。その業績は、鉄道橋の標準設計を策定するなど土木技術のみならず、路線選定にあたって図上選定法を普及させたり、工事の機械化を推進したり、工事請負制度を改正したりと多岐に渡ります。工務局工事課長時代には丹那トンネル工事の管理や上越線清水トンネル工事も担当し、「鉄道始まって以来の天才技術者」と評されました。

近代都市・東京の設計者

 大正12(1923)年、関東大震災によって壊滅的な被害を受けた東京を復興するため、帝都復興院が設置されると、その手腕を買われた圓三は、土木局長に抜擢されました。(復興院は後に内務省復興局となり、圓三は引続き土木部長として復興にあたりました)
 圓三はここでもその才能を発揮し、多くの功績を残しました。
 第一に、道路の拡張・新設と、それにともなう土地区画整理を推進したことです。当時はまだ馬車が主流でしたが、圓三は車社会の到来を見越してこれを断行しました。現在、東京の幹線道路となっている昭和通りや靖国通りなどはこの計画でできた道路です。
 第二に、隅田川六橋をはじめ震災で焼失・崩落した100以上の橋の設計に尽力しました。その際、圓三は都市の美観にも配慮し、広く芸術家にも意見を求めたといいます。なお、隅田川に架かる永代橋・清洲橋は現在、国の重要文化財に指定されています。
 第三に、高速鉄道(地下鉄)の必要性を説き、鉄道網の具体的な計画化に携わりました。復興事業では予算の都合上、地下鉄の敷設まではできなかったのですが、圓三はその必要性を重視し、私案を作成して内務省公告にまでこぎつけました。
 圓三はまさしく、近代都市・東京の礎を築いたのです。

 帝都復興事業に心血を注いだ圓三でしたが、大正15(1926)年、志なかばにして自ら命を絶ちました。区画整理に対する無理解や、復興局疑獄事件の発覚による心労のためでした。
 多くの人々に惜しまれ、45歳の若さでこの世を去った圓三。しかし、その業績は現在も東京に生き続けています。

復興局土木部長時代の圓三

復興計画第一案(部分)

圓三の記念碑(神田橋公園)

木下杢太郎について

伊東市立木下杢太郎記念館

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