江戸城石垣石丁場跡
えどじょういしがきいしちょうばあと
石丁場遺跡とは、徳川家康が江戸城を築く上で必要な石垣石材の供給源を、伊豆半島に求めたことから、その採石の痕跡が残る場所を指します。
伊東市内には、多くの石丁場遺跡が残っていますが、特に重要な痕跡が残る場所が国史跡として指定されています。
また、同じく貴重な石丁場遺跡がある熱海市、神奈川県小田原市と一緒に指定となりました。
江戸時代初期の宇佐美村は幕府の直轄地で、伊豆東海岸の村の中では石高が一番多い村であり、名主荻野家は、当時黒田家の家臣であった後藤又兵衛と、採石を通じ交流した書簡も残っています。
指定区域は宇佐美海岸の北側の通称ナコウ山南側斜面にあり、丁場跡の最高部は標高350メートルとなります。
岩石は更新世の火山である多賀火山と宇佐美火山の転石を利用し、約1.5キロメートル離れた海岸にある港まで運搬しました。
江戸城築城は、慶長、元和、寛永の長期間の普請のため、採石に関係する大名も多く、普請が行われた時期によってその場所で採石していた大名が違うこともあります。
文献では慶長18年には黒田長政(福岡)、田中忠政(久留米)、細川忠興(小倉)、生駒一正(丸亀)、立花宗茂(柳河)、稲葉典道(臼杵)、伊東祐慶(飫肥)、毛利高成(佐伯)、木下延俊(日出)、寛永6年には松平定行(桑名)、細川忠利、寛永11年では有馬豊氏(久留米)、山崎家治、稲葉紀通(福知山)、九鬼久隆(三田)、立花宗茂(柳河)、立花種長(三池)、戸川正安(庭瀬)、平岡頼資(徳野)、桑山一玄(新庄)が宇佐美で採石を行ったとされています。
石丁場の中には、作業主が誰なのかを示す刻字や刻印の石を見ることができます。日本全国の丁場の中で、これほど多くの刻字が見られるのは伊豆の石丁場だけであり、いかに多くの大名が江戸城築城に関係していたかがわかります。
指定範囲のナコウ山山頂には、細川忠興を示す「羽柴越中守石場」の文字を刻んだ標識石があり、羽柴の文字から慶長年間に刻まれた石であることが分かります。
また、この山の中腹部に見られる刻印には、稲葉家、毛利家の刻印石を確認することができます。
寛永年間の江戸城の石垣積み上げ作業では、細川、稲葉、毛利は一緒に組んで普請作業をしていることから、採石現場でも同じような関係で作業されていた可能性もあります。
史跡内には、多種多様な刻印、採石の状況を示すクレーター状の遺構、次の普請に備えて石材を並べ刻印を施してある集積場所、運搬をしていたと思われる石曳道(推定)など、石材供給に関連した色々な遺構を確認することができます。
指定年月日 | 2016年3月1日 |
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更新日:2019年07月01日